僕の中で、エビデンスという言葉がいつの頃からか、当たり前のように歩き始めてる(エビデンスとは、根拠と捉えたらよいかも知れない)。
医療との関わりの中、特に、東洋医学を学び続けると、必ずぶち当たる壁がある。
『衛気(えき)が体表25周って?誰が決めたの?』
→見えない世界なのに、どうやって定義してるの 東洋医学は占いか?
『何故、このツボが腎に効くの?』
→腎の経絡だから、なんてものはエビデンスにもならない 言われた通りに暗記するだけか?
など、鍼灸を学ぶ者は、他所のジャンルからの問いかけに、どこかで後ろめたさやら、コンプレックスを持つはずだ(もしくは、持っていたはずだ)。
もしも何一つ疑問さえ持った事がないというならば、頭の中、お花畑すぎではないか!ともいいたくもなる。
東洋医学は哲学に密着し、基づいている体系であり、科学との擦り合わせが行われたのは、近年になってからだ。
又、エビデンス主体に見える西洋医学でさえも、この200~300年に急激な進化、発達をしたのだから、その西洋医学という科学に擦り合わせをするならば、数千年前の起きた東洋医学のエビデンスなどは、見方によっては薄っぺらいものになる。
巷では(特にツイッター)、コロナ治療やワクチンの効果に対し、エビデンスを示せ、素人は黙っていろなど、喧々諤々の有様だ。
最近覗いているツイッターでのドクター達は、
「医学部をダントツで通り抜けた俺の言う事が間違えなはずがない、いつまでかわからないが、今は黙って自粛しておけ。」
「ワクチンが効かないというならエビデンスを示せ」
「マスクばかりをしている奴は情報を取り間違えている」
このようにさまざな発信がなされている。
そう、それは全てがエビデンスありきの話なのである。
僕が大好きなはずのエビデンスのオンパレードだ。
しかし、どこか薄ら寒いのはなぜだ?
コロナより、この薄ら寒さの方が気になるのだ。
もしも、西洋医学が全ての正義ならば、もしくは科学の裏付けがあり真実ならば、何故、代替医療に救いを求める人が増えるのだろうか?
科学で説明できない何かが鍼灸やらヨガといったジャンルが担っている事は、本当に無いのだろうか?
やれグローバルスタンダードだ、ガイドラインだとかを声高に言うドクターは、おそらく、来なくなった患者全員が治癒しているものだと思われているのではないだろうか?
僕ら末端の鍼灸師は、西洋医学に疲れ果てた方を嫌という程に、診させていただいているのだ。
学生時代、鼻で笑った、占いよりも頼りない鍼灸。
エビデンスなんて何もないような鍼を頼りに、それでも何故だか身体に変化は起きる。
「頭の良い俺たちが舵取りをするから、末端の奴らは黙って自粛しておけよ。」
そうは言ってないと言うだろうが、僕にはなぜだかそう聞こえる。
立ち止まって想いを巡らせる必要がある。
医者は頭が良いから凄い。だからこそ全て言いなりという図式だけでは、世の中回らない。
上位概念に縛られ、振り回される必要はないのだ。
僕らから温もりを取ったならば、一体何が残ると言うのだろうか?