人生の主役は誰もが私
誰もがドラマの主役を演じるように自らの人生を生きる。
自己中心とは似て非なる、私の立ち位置というスタンスがある。
もしも、それをポジショントークとぶった斬られるのらばそれも仕方ない。
母の人生の最後は、もうそこまできている。
汗水流し、歯を食いしばるように「こんちきしょう、こんきちしょう」と自転車をこぎながら、家族に捧げるように働き尽くしの人生。
果たして、母の人生に主役の時があったのか?
母の生き方は1度さえも、主役にさえなれない、粗末で陳腐なものだったのか?
「仕事で疲れ帰る時、その角を曲がって、家までもう少しって時、こんちきょう、こんちきしょうって、言いながらペダルを押すんだよ」
何度か聞かされた言葉。
その度に、その言葉は何処に向かっているの?
誰に向けているの?
と、喉まで出かけたが、聞かなかった。
正確に言うと聞くのが怖かった。
その主役になれなかった母。
近く訪れるであろう、最後の瞬間。
せめて手を握っていたい、
微笑みかけてあげたい、
何より有難うと、直に言いたいだけなのだ。
きっと、僕と同じような気持ちの方も、この日本には、沢山いるかと思う。
僕が自粛に対して、悲しいのはこれなのだ。
それが例え、ポジショントークと言われようと、もう少しだけ、母を感じていたい事は果たして罪なのだろうか?
「僕の中で貴方はいつも輝いて、眩しかった。家族の主役だよ」