不寛容な時代は幸せか不幸か!
井戸端会議というものは、果たして日本独特の文化なのかは定かではないが、昭和の時代には至る所に見られた。
気の合う仲間、家族、床屋、銭湯などあちこちで、皆が思い思いの事を好き勝手に、喧々轟々、侃侃諤諤と捲し立て、時に熱くなり口論になり、気の荒いもの同士ならば胸ぐらを掴みあったりと…。
暴力を肯定しているのではない。
思いが募れば、当たり前のように、熱くなるのは当然で、譲れるものも、譲れないものもあり、酒でも入っていたならば、尚更、その場は危険な空気が漂うものだ。
しかし、僕が見てきた大人達は、又、当時の僕の仲間は、決して思うほど陰湿で、陰険ではなかった。
かっとなり、強い言葉で相手をなじるなんて事も日常的であるのに、それは当たり前の暮らしの中の情景であり、それこそが日常であった。
更に、そこには、崇高なエビデンスなんてものは何一つないのだ。
それでも昭和の男どもは、あれこれと語るのだ。
プロ野球選手にかなうはずもないのに、『原は下手だからなぁ』
格闘技もかじっていないのに、
『猪木なんて、実際弱いだろ』
『ブッチャーなら勝てるな』
まともに歌った事さえないのに、
『拓郎もまあまあかな』
など、よくお前が言えたものだ!そんな一言を、誰もが床屋で、銭湯で、学校で、仕事場で暇つぶしに、しかも真剣に語っていたのだ。
もしこれが、今の時代にTwitter、インスタ、FB、YouTube、テレビなどで同じ事をほざいたなら、場合によっては、明日には、見知らぬ者から住所を特定されたり、個人情報を晒され極悪非道の扱いを受ける始末である。
実は誰もがわかっているはずなのに、
表向きの美しさだけを纏う事が流行りになっている。
耳に優しい言葉は沢山あるのだか、胸に優しい言葉は、最近あまり聞こえてこない。