浜辺を歩いてたら、息せきながら僕を追い抜いていった1人の男性は、ほんのわずかな間に、どんどん距離を離していった。
追い抜かれる事は良くあるが、いつものそれと違うのは、年がかなり上であり、ラテラルスラストという膝を痛めている独特の歩き方。
僕の歩くスピードは、決してゆっくりと言う訳でないのに、年配の男性はリハビリを目的としているのか、又、違う目的があるのかはわからないが、陽が沈む最後の時間を惜しむかのように、向こう岸の河口で折り返した。
再びすれ違う時、首を傾げるようしながらも真正面を向き、荒い息と共に東に向かって行った。兎に角必死なのだ。
もしかすると、僕の存在にさえ気がついていないのでないだろうか?という程、ずっと真っ直ぐを見ていた。
夕暮れに照らされ、翳りを帯びたその顔には、何か懐かしい面影があった。
人には生きる証としての承認欲求という厄介なものがある。その欲求の大きさはさまざまであり、時に、自らそれに嫌気が差したり、周りがうんざりしたりもする。人の悲しき業は、いつまでも切り離す事は出来ない。
アナトミック骨盤ヨガ®︎・講師養成講座で1番大切な事は、アライメントを診る力とリード力である。この2つを磨く時間だと常に訴えている。
ある時、講座でそれを訴えているのに、何故、アライメントの違う子を褒めるの?と問われた事がある。
『その子の中で一生懸命やっているからだよ。それ以上でもそれ以下でもない』
答えもにならないような言葉を使った記憶がある。
すれ違いざまの老人を見た時、謎解きの答えがそこにあった。
清々しく、潔く、美しいと僕が感じたそれは、承認欲求という悲しき業から程遠く、崇高な瞬間を生きているようにさえ映る。
『誰かに褒められたいから、この場所を必死に歩いています!』と言った類いのアピールは要らない。ただ歩きたいから。それが必要だから。息を切らしてでも歩く。その背中はそう語っている。
人が何かに入り込んだ時の無欲さ。そんな時の顔は美しい。狙いを持って創りこんだSNSには無い純朴さがある。
すれ違いざまの懐かしい面影とは、アナ骨ワークショップで見かける、唯一、承認欲求から解放され、素の私に戻った幾人もの仲間の顔であった。
東に向かった紳士に追いつくはずもないので、大木に座り、捨てたもんじゃ無い人間を想ってる。
アナ骨の矛盾の答えは見つかったが、その矛盾のつじつま合わせするつもりはない。
アライメントなんかじゃないんだよ!