音楽の世界ではインスパイアという言葉がごく当たり前に存在している。
昭和のレコード全盛時代。洋楽に触れる機会は今のようにenter key1つで、即、流れてくるようなものでなく、誰かのお兄ちゃん、お父さんを等を通して、ようやく触れられ聴くことが出来る、それはそれは貴重なものであった。
残念な事に僕にはそう言った類いが一切興味無く、歌謡曲やフォーク、ロック、ポピュラーなどと言った言葉が曖昧で、厳密な定義もない日本語の唄が好みであったのだ。
残念と書いたのは『たられば』が許されるならという意味だ。
あの時、洋楽に触れていたら、又、違う感性や価値観を持ち、想像も出来ない人生になっていたかもしれない。それが右にふれるのか、左にふれるのか?は定かではないのだが。
さて、話をインスパイアに戻そう。
僕の好きだった音楽を後になって知ると、洋楽を上手に○クリ、日本流にアレンジしたものが圧倒的に多かったようだ。
洋楽好きな仲間から、これ見よがしに、種明かしをされた瞬間、胸の奥に保たれていた自信がザワザワた音を立て崩れるような悲しみがあった。
『なんだぁ、そういう事だったんだ!』
お祭りで見世物小屋を裏から覗いてしまったような後味の悪さや、もどかしさと言ったなら良いのだろうか…。
しかし、本家、元祖と言った物が全てあるなら、仮に紛い物という名の○クリ音楽は、淘汰されていくかと思いきや、そんな兆候はないのだ。
一部のマニアが鬼の首を取ったかのように、相変わらず、元ネタ発信をされてはいるが、いくらその元ネタを聴いても、僕には響かない事の方が多かった。
種明かしされたショックに暫く離れてしまった事もあるのだか、数年ぶり聴きたくなったり、心が救われたりと、マニアのいう○クリであっても、僕の解釈は違う。
元唄からリズムやメロディを上手にあてがい、常にリスペクトを忘れずに創りこんだオリジナルとなる。
何故なら、○クリとされている本人は、果たしてどこまでの意識があるのかはわからないが、実は事あるごとに、元ネタと言われるアーチスト達へのリスペクトを忘れていない。
インタビューやラジオなどメディアから○クッたと言われるアーチストの声を聞くと、『好きを積み重ね、消化しているうちに昇華され、このような形になった』的な事は、当たり前のように発言しているのだ。
つまり、ばれても良いんです。という事なのだろう。
恐らくそこに、後ろめたさとして悪気など微塵もなく、リスペクトの向こう側でインスパイアされたのだから…。
ヨガの話に置き換えてみると、残念ながらこの業界には、リスペクトは存在すらしていないのが現状だ。
積み重ねの真似が、初めてオリジナルに変化を遂げるのだが、昨日、貰った物を昇華もせず、私の物のように披露する真似事は連綿と続いている。
その為に高いお金を払ったのだから!
それは勿論、正論である。
しかし、そこには、インスパイアの言葉もありがとうも存在しない、無味乾燥とした世界である。
WIN-WINという当たり前に辿りつくには、まだまだ時間がかかりそうだ。
ー 内田かつのり ー