コロナ渦に突入し、例えばホテルの朝食ブュッフェなどの類いにあたる食べ放題が少なくなっている。
東急ベイ横浜(いつも、勝手にこう呼んでいるが正式に違うらしい)のモーニングは、宿泊した日の朝、コンディションが良ければ行くのだが、食べたいがまだ寝ていたい…そんな思いが優先され、この数年でも数回しか訪れていないが、束の間の安らぎを与えてくれる安らぎの場でもある。
いつもこの場所で感じるのは、沢山食べたいが、あれもこれも食べたい…ではいったいどうしよう?という欲との葛藤である。
食べ放題で特に店側がルールを定めていない以上、残す事も選択肢として許される。例えば、お腹が一杯になってきた。思った物と味が違う等、そんな時に残すという選択が起こる。
僕自身、毎回、皿に乗せた物全て残さず食べているかと言えば、恐らく、残している時もある。恐らくという言葉を使ったのは、絶対的な記憶の自信がないからだ。
しかし、そこにはいつも付き纏うものがある。
『心苦しさ』この一言なのだ。『すみません』という、料理人への申し訳なさは、忘れてはならない。
話を整理してみる。
まずは、残していけない法律でない。
つまり、犯罪ではないのだ。
店側からの『残したら罰金、罰則』という表記や説明はない。
これに則るならば、残すのも自由だ。
更に、店側からは『出来るだけ、残す事のないようお願いします』という少しハードルを下げたお願いさえもないのだ。
だから、創ってくれた方への気持ちなど関係ない。
そんな図式もあるかと思う。
確かに残して悪い事は無い。かつ、いちいち、謝る必要もないのだろう。
だからと言って開き直れる程、僕は図々しくもないのだ。法律でもルールでもないのに、何故だか申し訳なく感じながら、箸を置いてしまう時、パートナーへお願いして、残った物を食べ干して貰う事まで考えてしまう。小心さがある。
少なくとも、その行為に後ろめたさやら、申し訳なさを感じ程度の感性はいつも持ち合わせていろと教育されてきたからだ。
『心苦しさ』が付き纏うのは、僕の中で当たり前であり、誰もがそうであるかと思うのだが、その価値観はバラバラであることに最近気がつき、愕然としている。
『モラル』『マナー』『礼儀』といった法律やら規則、ルール以前に、人が人と接する上で、心地よく過ごせる為の空間創り、公の場での身嗜みに似た佇まいなど、それは口外する事さえ恥ずかしい程度のささいな美学そのものだからだ。僕の中の小心さとは、当たり前の美学さえもてない時に、胸の奥が締め付けられる痛みに変わるのだろう。
ヨガに置き換えたとしても、八支則という大風呂敷以前、哲学未満のごくごく当たり前の立ち位置の物になるのだろうと思っている。
多くの方が食べ放題の話に置き換えると頷いてくれるのだが、これが日常生活の中に潜り込むと、話はすり変わる。残念ながら、当たり前の『有難う』『ごめんね』さえ言えない感性の持ち主が世の中には存在する。
断じて、恩に着せたい訳でない。
その当たり前さえ、習ってこなかったのか?
もしくは立派なご両親を持ちながらも、教わる事さえなかったのか?
その貴方の背中を、大事なお子様が眺めているのに、教育をしたり顔で語るのか?
そんな人としての愚かさと感性の乏しさが、何故だか、とても残念なのだ。
ー 内田かつのり ー