美化されることが嫌だ。

 

そろそろ、このコロナ渦から1年が経とうとしている。

 

志村けんさんが、亡くなられた時の喪失感は、未だ鮮明なモノクロとして、頭のど真ん中に位置している。

 

時が経つにつれ、志村さんの人生が何故だか美化されているようで、薄気味悪いのは、僕の捻くれた性格からだろうか?

 

同じように、樹木希林さんの時も、出版社がこぞって、人生に役立つような本をビジネスとして刊行した。

 

それはまるで安っぽい自己啓発のバイブルにでもなり得るかのようだ。ほぼ全て、樹木希林さんの生き方を絶賛した内容ばかりであった(勿論、僕の目の届かない場所では、違う類いもあるかも知れない)

 

果たして、本当だろうか?

お二人は、聖人君子の如く、その人生を悩みなく走り抜けたのだろうか?

 

 

亡くなられた方を悪口を言うより、良き行いを称えたほうが気持ちが良い。

しかし、軒並み、足並み揃えるかのように、ただただ、当たり前の道徳的観念を描かれても感動すらない。

 

2人の偉人には、未だ、尊敬を飛び越えた羨望の眼差しで見つめさせて頂いている。

 

だからこそ、あちこちから出てくるエピソードなどには、違和感を覚えてしまう。

 

志村けんさんが生きていたら、コロナに対し、どんな笑いで励ましてくれたのだろうか!を、想像するだけで、その一時は至福である。

 

樹木希林さんは、もしかしたら、この不自由な自粛に対し、悪態さえも平気でつくかも知れない。

 

お二人が、ただただ、いい人な訳ないだろう!と、呟くしかない今日この頃だ。