2019 8月11日(日) manawa house
でのアナトミックヨガでのテーマになった言葉。
その前日夜、講座終了後、さかたのりこがポツリと漏らした。
『名古屋から来たミカさんのお子様が、何だか突然、亡くなられたらしいよ』
『帰り際、僕にはそんな素振りさえ見せずに、階段を降りていかれたのに?どういう事?』
ここから先のやりとり、淡々と続いたはずだが、一切の記憶が途切れている。
どう生きたいかのか?が『人生観』なら、どう死にたい?は『死生観』である。
しかし恐らく残念ながら、宗教と離れて暮らせる日本人の多くは、そして日本の医療体制がある意味発達し過ぎた為に、僕らは『死』というものを、ありそうで無い、遠い遠い別次元のモノとして捉えてしまう。
事実、数年前、母親が倒れた時、僕の狼狽振りは無様であり滑稽でもあったはずだ。
いつかは…という事がわかっていても、僕の中では、子供の頃見つめていた母親がいつも存在していた。
ある時期からは、小さな背中になったもんだなぁ!と、感じながら、その向こう側にある死を凝視する事が堪らなく辛かったのだ。(幸い、このコロナ渦でも、ボケてしまった母親は、かろうじて息をしている)
それ以来僕の中では、いやが上にも日常の中に『死』を置きながら暮らすようになっていった。
『人がこの世から消え入るとは、どういう事なんだろう?』毎日、毎日、こんな思いを抱えていた。
毎日、毎日、母の施設からも又、連絡があった。
具合が悪い…救急車呼びました。そんな悪い知らせばかりであった。
ある時、施設から大阪へ向かう時、母親はベッドで悶絶し、足には痙攣が起きていた。
このままで大丈夫なのですか?と、対応を求めても、暖簾に腕押しのような施設からの返答のまま、仕方なく横浜線に乗り込んだ。
『本気で脳が壊れる』と、明確に感じたのは、長津田駅を過ぎた時だった。
そう心でなく、脳が壊れると明確に意識出来る位、頭はもうヘトヘトに疲れ果てていた。
2019年8月8日 ミカさんのFBには、こんな文字が綴られていた。
『8/5 コウセイは永眠しました』
『コウちゃんと手を繋がせてもらったのは、何年ぶりだろう いつのまにか こんな大きな手になって』
昼間のミカさん、
少なくとも講座中、
一切、
その悲しみを見せなかったはずだ。
もしかすると、
僕が鈍感なだけだったのかも。
だが、
ミカさんの息子さん15という歳
しかも、それは突然の死
そんな状況の中での話なのだ。
『どんな思いで、来てくれたのだろう?』
『痛みに重さがあるのなら、どの位の重たさなのだろう?』
『心は? 脳は? 壊れてないのか?』
どのようなハテナも想像さえつかず、
わかってるのは、そのタフさだけだった。
良く若い人生の死に対し、きっとこの地球上の誰よりも、〇〇ちゃんは充実していはずだよ。
などの慰めがるあるが、断じて、そんなはずはない。
本人も周りもそこには、未練が残っている。
思い出もまた、形の違う未練なのだ。
ミカさんは、きっと言うだろう、
『私はタフではないです』
と、しかし僕から見たらタフなのだ。
生まれた子供が自分よりも先に逝くなんて、当たり前であってはいけないし、神様を罵りたくもなるだろう。そう、梨状筋なんて勉強しても意味さえない時なのだ。それでも、彼女は来てくれた。
もしかしたら、その時間のほうが、考えなくとも済む時間だったのかもしれないが、居ても立ってもいられない時である。
張り裂けそうな胸の中のうずきを、いったい、どうやって静め抑えていたのだろうか?
やはり切なさで一杯だ。やっと天から生またのに、何故急いで天に帰るのか?たった一人で?
とても人事には思えない僕の事情も重なり、明け方まで想いを馳せていたが、それでも、悲しみの重さなんて分からなかった。
その日のアナトミックヨガのテーマ、それは彼女から頂いたようなものだ。
『命の調べをずっと聴いていた 8月の夜』
ミカさんへの想いを込め、タイトル下へ小さくMAへ捧ぐとも、添えさせて頂いた。それもまだ、鮮明に記憶している。
2021年春。4/10
街が沈み、人に元気がなく、肩を落として歩くような毎日だからこそ、タフな彼女は、さわやかな春を演出してくれる。
どんなに緊張していても、空からは大切なわが子が、その晴れ舞台に手を振っているはずだ。
からりと眩しい春のアナ骨を、ミカさんと一緒に楽しんで欲しい。