小学3~4年の頃だったと思う。
毎月、小遣いを貰えるようになった。恐らく300円だったかと思う。
公園近くにあるソロバン塾に通いながら、その公園でありったけのエネルギーを使う。目の前の駄菓子屋に駆け寄り
、母から貰った小遣いを大事に使い空腹や興味を満たしていた。
野球、鬼ごっこ、缶蹴り、陣取り、その全てが楽しく、何の矛盾も無かった。
ただ、そこでの小銭の使い方に仲間で差があった。豪快に使う安藤君は、決してお金持ちでは無いが、お母さんが水商売をしていたのだろう(当時、安藤君のお母さんは何故昼間、寝ているのだろう?位に思っていが、今ならその理解も出来る)。いつも、50円、100円と自由に使っていた。
あんまんが20~30円で買え、あんまん、肉まんの2つを食べる事が出来たなら、もうそれは天国にいるかのように幸せであったのだ。
勿論、そんな事は到底、自分の小遣いで出来る訳がなく、何度か安藤君に奢って貰った記憶がある。
僕の家と言えば…
父がまともに働かない、アル中に近いであろう時々大工。
という事情なので、貧乏である事は不思議でもなく、悲しくも無かったが、お金があったらいいなぁと、いつもその駄菓子屋で想っていた。
そう、『あれも、これも買えるのだから…。』
台所の引き出しには、小物入れの箱があった。箱の蓋は外され、箱本体を下から覆うのようにかぶされ、それは補強の一部になっていた。その小物入れに何があったかは余り記憶が無い。
しかし、箱本体と蓋の間には何があったかははっきりと覚えている。
100円玉、50円玉、10円、5円、1円といった小銭である。
ある時、『少しならいいだろう』と…。
これが最初の気持ちであった。
100円をくすねるのは気が引けるが、20円、30円ならと…。
いつしかそれは数え切れない程になっていった。
果たして何度、心をすり減らす、汚い行為をしたのかさえ記憶が無い程であった。
残念ながら、度重なる毎に、母への負い目も薄れてしまった。
心は汚れに慣れてしまうものなのだ。
駄菓子屋での沢山の贅沢は、後ろめたさよりも大きかった。
冬のある時、安藤君に、あんまんと肉まんを奢った事あった。勿論、くすねた金なのだから、奢った訳ではないのに、何故だかいい気になった薄汚い僕がいた。
母親は絵に描いたような真面目さを持って暮らしてた。生真面目を通り越したそれは、父親とは真逆であり、競輪が好きな父を忌み嫌いながら、それでも、子供の為に少ない時給で働き詰めであった。
ある時、台所の引き出しに1000円分の宝くじを見つけた。そう言った類の物は大嫌いなはずなのに、宝くじを買った母がそこにいて、宝くじにすがった母を見てしまった。
見てはいけない母の、追い詰められた心を、隠したいであろう姿を見てしまったのだ。
お金に少しでも余裕があれば、生活用品やら、食料品を買うはずの母が、宝くじを買うなんて事はあり得ないのに…。
なけなしの1000円を使い、何かを願い
祈るような想いで財布から出した事は、子供心にも痛い程理解が出来た。そしてそれは母の最後の手段のようにも思えた。
『お母さんが、働かずにお金を儲けようとしている』
僕にはそんな風に写り、そこまで追い込まれている母が、ただ恐かった。『小銭くすねてごめんなさい』と言わなければならないのに、その言葉の前に、ただ恐さだけが、後ろめたさに追い討ちをかけた。
『うちには、そんなにお金がないのだろうか?』
『それなのに、それなのに…。』
数年後の母の時給は430円であったから、小銭をくすねていた頃の時給は、もっともっと安いはずだったのだろう。
その日を境に、母の箱の底に手を出す事をやめた。
厳密に言えば、恐くて、恐ろしくて、箱の底を見れなくなったのだ。
そして母には、未だあの日々の事を、言えていない。
『ごめんなさい』さえ言えていない。