ジレンマという葛藤

 

 

江ノ島で一度だけ朝ヨガをした事がある。

 

トリコーナーアーサナ越しに映る、地平線の向こう側は、朝の光にクレヨンの青のような鮮やかが入り混じり、起き抜けの犬が棒を咥えて波打ち際ではしゃいでいた。

 

朝方までイライラし、あまり寝付けなかった事もあり、参加をためらい、仕方なく来た感が強く、楽しくなんかないよ!と不機嫌で一杯だった。

 

見上げた空は、しみだらけの心とは、裏腹に、潮の香の蒼色を、これでもかという程、照らしてくれた。

 

 

〝ここまで来いよ!気持ちが良いぞ〟

 

と、蒼の空が呼んでくれているようで、照れ臭さと自分の小ささに、届かないもどかしが重なって、アーサナ中なのに思わず吹き出してしまう、バツの悪い自分がいた。

 

海はやっぱり良い。

トリーコーナアーサナから見上げるクレヨン色の空も良い。

 

あの日の焼けつくような砂浜が、

忘れられない夏の記憶を、

葛藤というジレンマと共に、

今も残してくれている。

 

深夜のイライラの正体、それは、人に話すようなものでもなく、ただただ、なりたいはずの自分への焦ったさから来る葛藤という名の矛盾。

 

考えてみると、いつもそんな風に葛藤ばかりを繰り返してる。

もしかしたら、24時間、365日、葛藤しているのかも知れない。

 

 

小学生の頃、周りの仲間より小遣いが少ない事で、自分勝手の正義を謳い、母の小銭を何度も何度もくすねていた。

 

ボールペンや栓抜き、ベルマークが無造作に置かれたお菓子の箱は、二重に重ねられ台所に置かれていた。

 

重ねられた箱を持ち上げると、二つ目の箱の底に10円玉、50円玉が、時に100円玉もあったものだ。きっと見てはいけない母の秘密。

 

貧乏すぎる家族には、この小銭さえ大金なのは、わかっていたが…小狡い正義感を唱えては、20円、30円とくすね、公園近くの駄菓子屋で腹を満たした。

薄汚い正義とはわかっていても、何度もくすねた。

 

その瞬間の自分の指の映像は、懺悔のように未だ残ってる。何十年と経った今もまだ鮮明だ。

 

幼いながら、〝こんな事をしていいのだろうか?〟葛藤というもどかしさだけは、持ち合わせていた。

 

きっとそれは、人としてギリギリの失くしていけない何かなのだろう。

 

人は葛藤から逃げられない。

 

この辛さから解放されたくて、きっとヨガに救いを求めた。

だけど、憧れの自分像を描けば描くほど、葛藤という名のややこしいジレンマは心にしみを創る。

 

ヨガは、

トリコーナアーサナは、

 

とても素晴らしいものだか、

 

それでも、まだまだ、葛藤は続く。きっと、いつまでも続く。

 

だけど、そんか自分を何故だか許せる。