震えたままの8月の土曜の夜

小学生の頃、大磯の海へ良く連れて行ってくれた母。丈夫でない僕を潮風を浴びさせ健康にさせようと、、、何度も何度も海へ。波のうねりや風の心地よさはプールには無かったもので、何より海は誰もが笑顔になれる場所でもあった。

 

浜辺にはジュリーやピンクレディの唄が響いていた。砂浜だけでなく海の中でも聞こえていたような記憶は幻かもしれないが、その位、昭和歌謡は僕に元気をくれた。

 

足が届くか届かない深さにも慣れ波と戯れていると、あっと言う間に東へ東へ流されてしまう。そんな時、水の冷たさ、自分の小ささ、何より海の大きさにゾワリと怖さを感じる。さっきまでの楽しさが壊され不意に不安になり、遠くの母を探す。砂浜に麦わら帽子を被った母を見つけると妙にホッとしたものだ。何故か安心しそれがとても心地よかった。

 

どこにでもあるような夏の一コマだが、今、思えば母自身、決して健康ではない中、パートの合間の時間を使っていたのだから、さぞかし大変だったのだろう。損得のない無償の心を与えられていた自分は幸せなのだと思う。

自分で言うのも変だか、妙に情に絆されやすいのは間違えなく母の遺伝子なのだ。

その自分が時に憎らしくもあり、誇らしくもある。

 

そんな母が倒れ、あっという間に7年が経過した。コロナ禍に突入した2020年からの4年間、母にとって最後のリハビリに夢を架ける時でもあったのだか、不要不急という実態のない空気にリハビリは全てを奪われてしまう。その間、わずかに残された母の人としての機能は、少しずつ削られ、口を利く相手さえいないような1日に尊厳は奪われ廃用症候群が進むだけの毎日になってしまった。

 

今年の春以降、少しの時間、面会を許されるようになったが、残念な事に、もう既にバカ息子の顔さえわからなくなり、その声さえ届いていないようだ。吐き出す言葉は『馬鹿野郎!』という言葉ばかり。母はすっかり変わり果て、母でなくなってしまった。

 

黙って眼を瞑ってる時間の方が長く、それは神様から覚悟を強いられる僕への猶予の時間なのかもしれない。残された時間は少ない。せめて、もう一度、帽子を被り、砂浜に座わり、僕を見守っていた頃の母に戻ってくれないか!一瞬でいい。優しかったあの頃の顔を見せてくれないだろうか!

 

真夏の昼下がり、母の車椅子を押しながら願いを唱えるものの、『馬鹿野郎』と罵られるだけなのだ。

それでもいい。この時間は我儘ばかりして来た贖罪であり懺悔でもある。生きると言う事は、楽しい分だけ残酷な事なのかも知れない。

 

心だけは潔癖であった、あの人との残りの時間。震えたままの8月が通り過ぎていく。