『中華街で一番美味しいのが、うちの小籠包だから』
何回聞いたかわからない言葉だが、決して嫌味ではないのは、見栄を張った感じや気負いもなく、何より確かに美味しいからだ。
ある時、ひょんな事から知ったその店は中華街にあった。
但し、煌びやかで荘厳な中華街東門(朝陽門)の外にあったのだ。
門の中と門の外。言い換えれば、扉の中と扉の外。当たり前のように、お客の出入りが全く違うのだろう!余程の理由がない限り、中華街に来た以上、豪華絢爛な門をくぐる体験をしながら食事をしたいのが人情だ。
その店のお母さんには、それが悔しくて悔しくて仕方がないのだろう。だからこそ、食べてくれさえすればわかるからと、ついつい『ウチの店の小籠包は…』と始まってしまう。
当時、店はアイドルタイムと呼ばれる時間であっても休まず営業を行い、かつ、夜早く終わる中華街のイメージに反し、深夜でも開いていた。
僕らは昼に行く事もあったが、仕事終わりの深夜に行く事が多く、疲れ果てた身体に詰め込む深夜中華は最高のご褒美であった。そこで店の仕切りほぼ1人でやっているお母さんをいつも見ていた。調理から配膳、雑用など全てだ。夜は仕事帰りの旦那さんがいるのだか、メインで動くのは常にお母さん。
深夜でも、大きな音で中国語の音楽が鳴り響き、片づけきれていない食器は溢れ、椅子に座り、こっくりこっくりとうたた寝をするお母さんの姿は決して珍しいものではなかった。サボって寝ているなんてとても思えない。動き回り疲れ果ててのうたた寝なのだ。
等身大のその姿は、カッコ良いものではないが、人の業のような凄みを匂わすものに近いのかも知れない。
働きづくしの1日はさぞかし大変な事は、容易に想像出来る。何処かで自分の母を重ねてしまう。
なんで早く閉めないのだろうか?なんでそこまで疲れて働くのだろうか?
ある時、お母さんからそんな話を聞く事があった。
『疲れたから、客来ないからで店閉めてしまうと、期待して来たお客さんに悪いでしょ!
営業時間をかかげている以上、信頼を失くすような事をしたら駄目なのよ!』
当時、店は自慢の味に対し、思うほどの認知がなかったのかも知れない。だからこそ、マンパワーでそれを補うのは当たり前と言う事なのだろう。
僕から見たら繁盛店なのだか、お母さんには足りない、満たされないものがあったようだ。
満たされない事?
それは今まだ門の外にいる事。ジレンマを消すには、門の中に行くしかないのだから!
門の中には、輝く未来があり、その為に頑張るのは苦しくはないのだろう。
数日前、久しぶりにその店を思いだした。そして以前と違う場所に店を見つける事が出来た。
そう、門の中に入ったのだ。
お母さんの足枷になっていた重たい扉を開けたのだ。
この時があればこそ!頑張れたのだし、
あの時があるから、此処にいられる。
遠い昔の時間という結晶は、お母さんだけでなく、僕の中でもなぜだか残っている。
お母さんには、常に『何処に行きたい!』があった。漠然とした何処かでなく、眩いほど憧れた、あの中華街のシンボルである門の中だ。
恐らく最新のマーケティング理論など知らないはずだ、遠回りも沢山あっただろうが、そんなものはお母さんからしたらクソ喰らえなのかも知れない。
憧れがお母さんを導いて、中華街の神様もきっと、お母さんの働きっぷりを黙ったみて頷いていたのだろう。
重たい門扉をこじ開けたお母さんは、今もあの味を保っているのだろうか?
みんなにとっての門とは?扉とは?いったい何なのだろう?
何処にいきたいのか?
その何処か?は、曖昧な何処でなく、門の中なのか?外なのか?
人生には痩せ我慢しながらも、見栄を切る事が必要な時もあるのだと、小籠包のお母さんは教えてくれた。